「極楽寺山は気高くそびえ・・・・」校歌の1番の最初に歌われている極楽寺山は、山頂一帯が瀬戸内海国立公園に指定されています。
その山頂の極楽寺に安置されている千手観音の二字をとって「観音山」とも言われており、佐方・屋代・三宅・坪井・千同・倉重村が合併した時に観音村と名づけられました。
私たちの学校、「五日市観音小学校」と大変馴染みのあるところと言えるでしょう。
天平9年(737)、聖武天皇の時代、僧行基が総国分寺大和国東大寺造営の勧進(寺院の建立・修理などのために寄付をあつめること)にこの沖を通りかかると、北方の高山から光明が発して海上を照らすのを見て、不思議に思い船を岸に寄せこの山に登りました。
大杉郷にあるこの杉の巨木を伐って、四十八体の阿弥陀仏を刻み、次に薬師如来像(保井田薬師)を刻み、余木をもって諸仏を刻みました。
行基は千手観音を本尊として山中最も景勝の地に当たる南の峯に安置しました。これが今に伝わる極楽寺の千手観音です。
聖武天皇はここに伽藍を建立し勅願所に定められました。
後年嵯峨天皇とき、弘法大師が自ら開眼供養を営み、真言宗三蜜瑜伽の霊場にさだめました。
その後、極楽寺の由来が後鳥羽院が伽藍再建を命令されるとともに上不見山浄土院の勅号を下賜され、特に上不見山の四大字の御宸筆を額面として御寄付になりました。
その額を届ける使いに立ったのが佐藤兵衛憲清(後に仏門に入り各地を巡錫した歌人西行法師)です。
憲清は勅額を奉持して、はるばる京都から下向し、観世音堂に納め、次の一首を詠みました。
するがなる 富士をば安芸に 引きかえて
上見ぬ鷲の 山のたふとさ
毛利元就も百度参り武運を祈願し、輝元、元清も深い信心を捧げ諸堂の建立をしたり、寺領五百石の寄進をしています。